名寄本線の廃線跡巡り


 網走方面への第2ルートとして建設された路線で、名寄から東へ興部(おこっぺ)まで伸び、そこからオホーツク海沿いを南下して湧別を通り遠軽まで至る路線。大正6年に工事が始まり全線開通は大正10年10月。廃止は平成元年4月30日で、「本線」の名がありながら唯一廃止された路線でもあります。
 今回は中湧別から名寄までの移動だったのですが、途中渚滑線を通った関係で中間が抜けています。(^^; そのため興部辺りにあった道の駅と名寄本線の資料館は、今回は通りませんでした。

(撮影日:2000.8.13)


(中湧別駅)

 鉄道資料館となっており、当時の駅とホーム、4両の車掌車とモーターカー、踏切や腕木式信号機があります。資料等は車掌車の中にあるのですが、ドアが壊れているのか、中に入ることはできませんでした。
 
(中湧別駅に残る駅名標)

 平成に入ってから廃止になったものの、昔ながらの駅名標が残されていたことには少々驚きました。
 向かって左方向は紋別、名寄方面。他にも網走方面に向かう湧網線と、湧別市街地に向かう支線が走っていました。
(沼ノ上駅)

 中湧別から紋別方面は、しばらくオホーツク海沿いになるのですが、路線は内陸に近い方を走っていたので海は余りよく見えないところにあります。
 途中にある沼ノ上駅にはホームと駅名標。なぜか土砂に埋もれた待合室が残っていました。
(上興部駅)

 海岸沿い近くを走るようになるのは紋別付近からなのですが、紋別市街は土地が整備されており跡はほとんど残っていませんでした。

 渚滑線跡を回り、内陸を通ったあとに再び路線あとに出てからは上興部駅に。ここには今も駅舎やホームが残されており、中は鉄道資料館になっています。
(上興部にある気動車)

 駅舎の資料館の中には名寄本線に関する資料がかなり多く残されており自由に見学することができます。 
 裏手のホームにある気動車はキハ27でエンジンが外されており中は簡易宿泊施設として使うために座敷になっていました。
(二ノ橋駅)

 この辺りは日本でも有数の過疎地帯で、集落も駅跡地にごくわずかしか残っていません。
 廃線跡めぐりをしていると、線路もないのに「跨線橋」が残っているところを多く見かけるのですが、ここもその1つ。
 遠くに見えるのが跨線橋で、この辺りはかつての「駅前広場」だったのでしょうか。駅跡は写真左端辺りだと思われます。
(下川駅)
 
 名寄から東方面に出たときに、最初に会う大きな市街地がこの下川の辺り。駅跡地はバスターミナルになっていて、わずかながら名寄本線の写真や資料などが展示されていました。
 裏手にはキハ22が残されており、なぜか窓下辺りに緑の線が入っていました。


 (撮影日当日は、周辺の広場で盆踊り祭りがあったようです)
(中名寄駅)

 この手の建物は、かつての無人駅で待合室として使われたもので、他の駅(駅跡)でもよく見かけるものです。

 中には当時のポスターや時刻表、イスなどが残されていました。なぜか深名線の蕗の台駅近くにあった道路標識も。
 ホームは写真向かって左側にあるようです。
(名寄駅付近に残る線路)

 左がかつての名寄本線の線路。道床が新しくなっているのは宗谷本線の線路で、その右側には深名線の線路のあとが見えます。
 名寄本線の線路は引き揚げ線となっていて、写真の奥の方までで切れていました。
標津線 湧網線 渚滑線
深名線 「旅の写真館」に戻る トップに戻る